沿革項目の詳細



■ 藤野綿業の創業年は、明治10年。

浅野藩時代から

綿操屋として営業していることが

確認されていますが、

近代化生産を始めた年を

創業年としています。



■ 明治38年

英国製ローラーカード梳綿機を設置。

このローラーカードは、

従来の明治28年頃発明された

木製綿打機械で綿を打っていて、

1日に1人が3~4貫目の生産しか

できなかったのに比べ、

1日に30貫という桁外れの

生産高を示しました。



■ 大正年間は、隆々発展の年。

次々と販路が開拓され、

ほとんど全国に行き渡り、

我が国製綿業界における重鎮として

大御所の名を欲しいままにしました。


■ 昭和4年7月3日

全国の製綿業者を統一して

歩調を合わせようという機運が高まり、

東京綿業新報という業界紙が努力して、

東京において、

大日本製綿連合会が設立。

そこで、

各地の代表的な製綿業者が一堂に会した

製綿史にのこる盛大な議会が開かれ、

藤野綿業は

議長を務めました。


■ 広島市の東蟹屋町の工場

(当時5000坪)を

大正15年に

近代製綿工場の先駆けとして建設。



■ 昭和10年には

藤野式の独特の乾燥機が完成し、

生産倍加。

どういうものかといいますと、

まず、脱脂綿は、

一度水につけて製造されます。

ゆえに、

冬季は長い時間を要する為、

生産が著しく停滞していたのですが、

この機械の完成により、

その障害を克服し、

更に、

脱脂綿用乾燥機として、

特殊な装置を取り付け、

能率的にも衛生的にも

高品質なものが

提供できるようになりました。


■ 日中戦争がはじまった頃、

全国の業者が

企業整備等の問題で右往左往している時、

綿花配給の一大機関として

大日本製綿連合会が創立。

初代理事長に藤野綿業が

推薦され・就任しました。


■ 満州富士綿株式会社は、

昭和13年から6期に分けて18年まで

工場の拡大と整備を推進。

満州における軍需のほとんど大部分を

生産するまでになりました。


■ 満州富士綿では、

最初は、製綿が主体でしたが、

軍当局から衛生材料を委嘱され、

ガーゼ、包帯、脱脂綿等を生産。

もちろん民用需要のものも生産され、

大陸に大いなる福祉をもたらしました。


■ 朝鮮半島では、

満州より少し遅れて13年に

工場を建設。

原綿の現地調達による生産が

開始されました。

そして、

朝鮮半島には

同業者がいくつもありましたが、​

朝鮮半島の約4割は、

藤野綿業の

天使綿が占めました。

その後

昭和後期


昭和59年

綿需要の変化と

方針の違いによる

藤野家の足並みの乱れから分裂し、

廃業。






© 2000 広島郷土勉強会 All rights reserved。
Powered by Webnode
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう