終戦・原爆投下後の

藤野綿業



《原爆の被爆の惨状》​


【 藤野綿業 東蟹屋工場 】

広島市東蟹屋町130番地

爆心地からの距離

約2.7キロメートル



建物および施設の被害は、


建物が

全壊10パーセント、

半壊80パーセント、

小破10パーセント。


施設の被害は、

爆心地から少し距離があった為、

極小にとどまったが、

建物の屋根が破壊されており、

その後の雨つづきで、

全施設が濡損し、使用不能。


炸裂時の状況としては、


煉瓦造りの製綿工場は、

約50メートル南から北へ

亀裂した場所があり、

工場の入口部分は

約15センチメートルが食い違い、

のこぎり型の屋根(煉瓦造り)は、

のこぎりの根本に亀裂ができて落下、

屋根は、合掌・梁などが裂け、

屋根板は折れて飛散、

窓ガラスは全部破壊され、

微塵となって床の上一面に飛散。

三階建て倉庫は、

ペシャンコになり、

土蔵倉庫は最もひどく破壊。

衛生材料工場は、

木造が多く、

包装工場(二階建て延べ2000坪)は、

西北市道に面する柱が全部折損して、

市道の方へ傾き、


第一精練工場は、

建物が古かった為、

屋根ごと吹き飛ばされて、

隣家の屋根までほぼ4メートル移動。

 また、

他の工場建屋も屋根が吹き飛ばされ、

隣地の畑の中へ倒れかかる次第。

余談、

この惨状の中、

敷地内にある富士神社だけは、

ほとんど無損壊。

(広島原爆震災誌からの抜粋・編集)


《復旧状況》


被爆直後は、

損壊はなはだしい建物や使用不能の

機械類を

修繕する人手も材料もなく、

一段落したのは

年明けの頃で

この頃から機械の分解にかかり、

徐々に復旧。

会社の製品項目が

寝具や衛生材料のため、

国内需要に迫られて、

中央部からの圧力が強く、

一日も早く生産するように

と攻められた関係で、

昭和二十一年一月頃、

被爆後初の製品を生産。



(広島原爆震災誌からの抜粋・編集)





《大陸からの引き上げ》


満州では、

当時のお金で、約2000万円、

朝鮮半島では、約4500万円

の在外資産を放棄。

なお、

大陸における終戦直後の

無秩序な

騒動と暴動の続発する中で、

従業員との良好な関係を

築き上げていたことが、

膨大な工場の中のその一つでさえ、

略奪されることなく、

また、

破壊されることがないという

奇跡的な状況を形成。

21年5月31日、

満州富士綿は、

国民政府軍に

完全無欠のまま引き渡され、

朝鮮半島の工場も

国連軍に同様に危害を加えられずに

引き渡しを完了。







《藤野綿業と広島瓦斯》 


(広島ガス株式会社)

当時の藤野綿業社長は、

原爆により

広島瓦斯社長の死亡が確認された

昭和20年9月には、

広島瓦斯株式会社

取締役社長として就任。

荒神町の藤野邸および

藤野綿業の事務所の片隅、

広島瓦斯皆実町工場で、

ガス復興の第一歩が踏み出され、

占領下の見通しのつかない

悪戦苦闘の中、

昭和21年4月10日には、

焼け残った皆実町、翠町付近に

初めてガスの供給に成功。


同年10月には、

ガス事業に本格的に乗り出すが、


独占禁止法が発令された為、


当時の社長は、

広島瓦斯に残ることになり、

藤野綿業は

新たに副社長が、社長に就任。


また、

広島瓦斯の藤野社長は、

昭和24年11月、

ガス事業の進展と共に、

GHQや政府当局と折衝の後、

紙屋町に

当時広島市に誇るべく近代建築の

ガスビルを建設。

そして、

昭和25年5月20日

日本瓦斯協会副会長に就任。


全国的な

ガス事業の

復興建設に参画。




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